最初の挨拶
パンダとジョン

BBC制作、現代版シャーロック・ホームズのドラマ「SHERLOCK」ファンのブログです。
①正典/聖典(原作)と比較しながらドラマを観て、元ネタ探し
②ドラマでまだ出てこない原作の事件は、SHERLOCKだとどんな話になるのかな?と妄想する

…を一人で(主にトイレとかお風呂で)楽しんでいたのですが、
さまざまな方にご意見をいただけたら楽しいだろうなあ、と思って始めました。
ネタバレ満載ですのでお気をつけください!
★原作の文章を引用する際、主に新潮文庫版(延原謙・訳)を参考にさせていただいております。
★全ての記事は、推測やこじつけを基にしており、たまに妄想も入っております。ご了承の上ご利用ください。
★このサイト及び記事へのリンクは、どうぞご自由になさってください。
【お願い】 ★記事における間違いは、できる限り修正したいと考えております。お気づきの点がありましたら、ご教示いただけるとありがたいです。
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モリーの思い

友人と互いの仕事の愚痴をこぼし合っていて、「過剰に腰が低い人」の話になりました。

―とにかく、ちょっとしたことで大げさに恐縮されてしまう。あまりにも激しく反応されるとこちらも居たたまれなくなって、「こうしてほしい」という要求が通しにくく、助言にもつなげにくい。
まったく恐縮しない人よりも、腰が低い人の方がよしとされるが、度を過ぎると意思の疎通が難しいのはどちらも同じ―

私も「失敗した」と感じると、よく話を聞く前にとりあえず謝ってしまう」ことがあるので、友人の話にはドキッとしたのですが、「すぐ恐縮する人」「恐縮しない人」という対比に、"A Study in Pink"のモリーとシャーロックを思い出したんです。

ジョンが街角でばったりマイクと出会ってシャーロックを紹介されるのは、原作と同じ。その時シャーロックが一人で実験をしているのも、原作と同じです。
ただし、原作のホームズはシャーロックのようにおとなしく(?)していず、大騒ぎをしながら現れます。

「発見したよ!とうとう発見したよ!」彼は一本のピペットを手に走りでてきながら、スタンフォードにむかって叫んだ。「血色素にあえば沈殿するけれど、血色素以外のものでは絶対に沈殿しない試薬を発見したよ」たとえ金鉱を発見したって、これほどうれしそうな顔はできなかろう。



初登場の瞬間に、奇矯さを印象付けているんですね。
それは現代版シャーロックも同じなんですが、初登場場面はジョンと出会う数分前に遡ります。

関連記事:「死者に鞭打つ

SHERLOCKという作品の魅力は、主人公であるシャーロックとジョンの好対照にあるのは言うまでもありませんが、初登場場面でシャーロックの対極の位置を占めているのは、ジョンじゃなくてモリーなんですね。
恋する女の子と、無粋な男。健気に相手を見つめているモリーに、自分の興味に集中しているシャーロック。短い場面ですが、二人の対比を通してシャーロックの人物像が雄弁に語られます。

モリーはドラマのオリジナルキャラクターですが、単にシャーロックの「真逆」ではなく、ある意味では似ているキャラクターに設定されているのが面白いところです。

・優秀な科学者である
・人との関わりが、不得手である
・死体に対する感覚と生きている人間に対する感覚に、境がない

2番目と3番目は、こう書くと共通点ですが、少し掘り下げると対照的な面でもあります。
とにかく恋愛に不器用なモリーですが、シャーロックの方は「表面的になら」理想の彼氏を演じられる、ということが第3シリーズで判明。
モリーは死体を「いい人だった」と述懐したり、ハドスンさんと比べちゃったり、生命は失っているけれどあくまで「人間」として扱っています。一方、シャーロックは生きている人間を、科学者の目で分析しようとする。恋愛感情を脈拍と瞳孔の状態で量るなんて、蛇をミルクで調教するのと同じくらい噴飯物だよ……と思っていた頃が私にもありましたが、それが彼ならではのロジックなんだ、と今では納得しています。(ついでにいうとアレはシャーロックが『自分らしさ』を装った建前で、本当は決め手は別にあったんじゃないかという邪推もしてますが、話がそれるのでまたにします)

でも、シャーロックが徐々に変容しているように、モリーだって変容しているのです。
それが一番よくわかるのが、この場面だと思います。

"How dare you throw away the beautiful gifts you were born with!
「どうして、持って生まれた才能を無駄にしたりできるのよ(拙訳)」 



この強いセリフと共に、ばっちーん!
第1シリーズ1話で、おどおどしていた女の子とは思えない!
それもそのはず、このセリフは「四つの署名」冒頭のワトスンのもの。

"Why should you, for a mere passing pleasure, risk the loss of those great powers with which you have been endowed?"
「(前略)なんだって君は一時の気まぐれから、せっかく持って生れた大きな才能をすりへらすような事をするんだろう?」



ホームズにこんなこと言えるの、原作ではワトスンくらいだと思います……
モリーの叱責はまだ続きます。

"And how dare you betray the love of your friends!"
「それに友達の思いを裏切るなんて!」



ワトスンはこう。

"Remember that I speak not only as one comrade to another but as a medical man to one for whose constitution he is to some extent answerable."
「これはただ友人としてではなく、医者としての僕が多少の責任をもたなければならない君の健康を思っていうのだから、そのつもりでまじめに聞いてくれなければ困るよ」



ワトスンはちょっと違うアプローチをしてきましたね……
いずれにしても探偵は蛙の面に小便みたいな顔してるんですが、内心では嬉しいはず。(気にかけてもらうの大好きだから……)

SHERLOCKの登場人物には、原作の登場人物の役割がそのままあてはめられるのではなく、すこしずつ分配されている、というようなことを以前書きましたが、モリーはシャーロックと対極にいるようでありながら、合わせ鏡のような存在でもある。初めの頃こそシャーロックの引き立て役だったかもしれませんが、エピソードを重ねるごとに存在感を増し、ワトスンのようにシャーロックと「並び立つ」キャラクターに成長を遂げていた、と私は考えます。

以前RMさんとお話したことがあるのですが、「社会性を獲得すること=人の成長」とは、一概に言えないかもしれません。
でも、第三シリーズまで来た今振り返ると、このドラマでは「人との触れ合いを通して、変容していくこと」が肯定されているように思えます。まるでそのことを象徴するかのように、モリーとシャーロックの二人きりだった「最初の場面」とは対照的に、この場面には新旧さまざまな、たくさんの(生きてる)友人たちがいます。

(原作からの引用はすべて延原謙訳)
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ビリーは、五人いる!?

第1シリーズの時も、第2シリーズの時も、ビリービリー詐欺を行ってきたナツミです。

第1シリーズのビリー:「ありがとう、ビリー
第2シリーズのビリー:「ビリーは二人いる

すでに私のブログに説得力はないですが、「今度こそ真打ち」と思われるビリーが登場しましたね!
ドラッグ・デンの住人で、シャーロックに迫る観察力と推理力を持つ男、ビリー・ウィギンズ。

明智小五郎に小林少年がいるように、ホームズには彼に憧れ、捜査に協力してくれる有能な少年助手がいます。
まず、上記の記事でも触れた、221Bのページボーイ、ビリー。
それに、「バスカヴィル家の犬」に登場した、メッセンジャーボーイのカートライト。何を言われても"Yes, Sir!"と気持ちよくお返事しててきぱき働いてくれます。たぶん、ジョンに言わせれば「ザ・理想の部下」("The Hounds of Baskerville"参照)。
そして、現代版では「ホームレスのネットワーク」となっている「ベーカー街遊撃隊((Baker Street Irregulars)」。「緋色の研究」で、このストリート・チルドレンの隊長を務めていたのがウィギンズ少年。
今回出て来たビリーは、二人の有能な助手のハイブリッドなわけで、そりゃあ優秀ですよね!比較的設定年齢が若いせいか、単に性格のせいか、あまり人望がない感じのシャーロックも、弟子ができて内心嬉しいはず。

ホームズにとって、ウィギンズはワトスンよりも古い付き合いになるわけで、その後どんな大人に成長したのか気になっているのですが、現代版ビリーはジョンとも衝撃的な出会い方をするのが面白いところです。その後、ジョンに対する観察力・推理力を見せつけて、シャーロックに認められることになります。

「おや、あれはいったいなんだろう?」このとき私は叫んだ。ホールから階段へかけて、どやどやと人の足音がして、主婦の聞えよがしの口小言が聞えたからである。
「探偵局のベーカー街分隊だよ」ホームズが真顔で答えた。そのとたんに、ぼろをまとったこれまで見たこともないきたならしい浮浪少年が六人、どやどやと室内へおしこんできたのである。
「気をつけ!」ホームズが命令すると、六人の小さな無頼漢どもはきたない小像でも並べたように、一列につっ立ったものである。「これからはウィギンズひとりを報告によこすのだ。ほかのものはここへ上ってくるんじゃない。そのあいだそとで待っているんだ。ところでウィギンズ、見つかったか?」
「いいや、まだだよ」少年のひとりが答えた。(『緋色の研究』)


ぱっと出会った時の反応は、ワトスンがウィギンズに出会ったときに似ているかもしれません。
現代版ビリーがどういう背景を持った人物かは、まだよくわかりませんが、19世紀の浮浪児たちも、現代の麻薬中毒者たちも、ホームズたちから見て「掃き溜めのような場所にいる」という点は同じです。そこにこだわらず純粋に能力を評価するホームズは大したものですが(関連記事: 『シャーロックと子ども』 )、率直なワトスンは「汚さ」への嫌悪感を隠さず描写しますし、ジョンはおそらく倫理的な理由から、麻薬中毒者のビリーに毅然とした態度で相対します。

一方、ビリーとワトスンはなかなか良い関係のようです。

「何もかも相かわらずだね、ビリー。君も変らないよ。ホームズにも変りはないだろうね?」
ビリーは何かしら気にかかるらしく寝室のドアをちらりと見やって、「先生はお寝みのようですよ」といった。
それは美しい夏の夕がた七時のことだったけれど、旧友の時間の不規則なのをよく知っているワトスン博士は、意外とも思わなかった。
「すると事件があるのだね?」
「はい、いま事件で一生懸命なんです。お体が心配ですよ。顔いろはだんだん悪くなるし、やつれてくるばかりで、何も召しあがりません。『お食事はいつなさいます?』ってハドスン夫人が尋いたら、『あさっての七時半に』とこうなんですよ。ワトスン先生は事件に熱中している時の先生のやり方はごぞんじですね」
「そう、ビリー。知っているさ」
「誰かを追い回しているんです。きのうは職さがしの労働者になって外出なさいました。今日はお婆さんでした。私まですっかり担がれてしまいましたよ。先生の手はよく知っているはずなんですがねえ」(『マザリンの宝石』)


この頃のワトスンは、ホームズとは別居しています(メアリと結婚していた時ではなく、クイーン・アン街に住んでいたころでしょう。出迎えるホームズの口調に、それをあまり快く思っていないようなよそよそしさがあります。『マザリンの宝石』はもともと戯曲なので、時間軸から独立したパラレルワールドという可能性もありますが)。ビリーは、当時のホームズとワトスンの間柄をよく理解していて、ワトスンの留守を守るような気負いがあるように思えます。
ジョンが所帯を構えた今、現代版でもシャーロックのそばにいてくれるビリーが必要になったのでしょう。今後は、ジョンと協力し合ってシャーロックを見守っていく関係になるのかもしれません。

ところで、第2シリーズと第3シリーズの間に出版された「公式ファンブック」では、シャーロックの持っている頭蓋骨が「ビリー」という名前になっていました。ジョンに出会うまではこの頭蓋骨がシャーロックにとっての唯一の友人だったことを考えると、ビリーという名前はふさわしいように思います。

それからその眼を最後にビリー少年の元気な笑顔に落ち着けた。この利口で気転のきく給仕は、あのむっつりと陰気な大探偵の孤独と寂しさを慰めるのにいくらか役だってきたのである。(『マザリンの宝石』)


そして、終盤で明らかになるシャーロックのフルネーム。(関連記事:『ウィリアムとヘイミッシュ』)
ビリーは、ウィリアムの愛称でもありますから、頭蓋骨はシャーロックの分身であり、シャーロック自身が5人目のビリーである、という考え方もできるんじゃないでしょうか。
リンク先にも書きましたが、ウィリアムというファーストネームは、原作にあるのではなくベアリング・グールドに命名されたものですから、ドイルがホームズの名と関連付けて命名したわけではありません。でも「ビリー」という名前が出たら、何か意味が込められているのではないかと身構えてしまう私です。まだ増えるんじゃないだろうな……(疑心暗鬼)

(原作からの引用はすべて延原謙訳)

【追記】れすとらさんのブログで、ビリー増殖の果てをイラストにしていただいてます!ビリー、ビリー、ビリー♪(←Spam Song風に)

ドラマ・クイーンはどっち?

"You're a drama queen!"



ジョンのこの台詞、ちょっと訳しにくいですが、よく聞く表現です。「ドラマ・クイーン」とは、些細なことでも大げさに反応する、芝居がかった人を揶揄して言うのだと思います。
対して、シャーロックも

"Though in fairness, he's a drama queen too. "
「公平に言えば、彼だって芝居がかってる」(拙訳)



とメアリに言いますが(そして同意されてる)、物語の終わり近くでも"murderers"と犯人を複数形で表現したジョンを"One murderer... One nearly murderer."(犯人は一人、それも未遂」と訂正し、ジャニーンに
"Loves to exaggerate. you should try living with him.(『いつも大げさなんだ、彼と一緒に住んでみたらわかる』)と話します。

シャーロックは行動が、ジョンは発言が、と、ポイントはちょっと違うものの、二人とも相手のことを「オーバーなやつ」と思ってるわけですね。

原作でも同じような戦いが繰り広げられています。
原作のホームズがワトスンを「大げさ」と責めるのは、主に記録における演出過剰について。
同じくらい、ジョンもブログの文章をシャーロックに責められていますね。
(関連記事:『ブログを巡る戦い』)

ホームズとワトスン、シャーロックとジョンを見比べていると、「言葉」というものに対する考え方がそもそも違うのだな、と思います。
記録に関する限り、ホームズとシャーロックにとって、「言葉」とは「事実を正確に伝えるためのもの」(二人には芸術を愛する一面もありますが、まあそれは一旦置いておいて)。ワトスンとジョンにとっては、「受け手の感性を刺激するためのもの」。このすれ違いが、「まるでユークリッド幾何学の第五定理に、恋愛物語か駆落ちの話を持ち込んだような」(四つの署名)というホームズのワトスン批判や、シャーロックのジョンに対する執拗なまでの綴りや数量の訂正につながるのでしょう。
しかし、この基本的な認識の違いが、「ワトスンやジョンが何気なく贈る賛辞が、ホームズやシャーロックを高揚させ、事件解決」という良いパターンを生み出しているともいえます。コミュニケーションとは、面白いものです。

「ドラマ・クイーン」と言うからには、文章だけでなく日頃の言動も含まれているのでしょう。
シャーロックの特徴ある動きや、もったいぶった話し方を思うと、ジョンがシャーロックを「ドラマ・クイーン」と呼ぶのは納得がいくのですが、シャーロックもジョンを「ドラマ・クイーン」と思っていたんですね。
原作でワトスンがホームズに対してどんな態度をとっていたか、(当人が記録してるため)実態がわかりにくいのですが、ジョンに関していえば、どんどん遠慮がなくなってきたような気がします。第1シリーズ3話あたりでは、シャーロックの理不尽な発言にも耐えていたり、タバコ代を出そうとしてあげたり、「心優しい助手」という感じでした。第2シリーズではすっかりシャーロックの扱いに慣れ、落ち着き払った相棒に。第3シリーズに至っては、後輩にパンを買いに行かせる不良のようなノリでマインドパレスに行かせてる……
「ドラマ・クイーン」のシャーロックに口で勝つには、そりゃ大げさな言い方もしますよね。
シャーロックの考え方や行動のパターンがわかって、最大限に効果的な伝え方ができるようになったという考え方もできますが、メアリもジョンのことを「ドラマ・クイーン」と思っているのなら、だんだんジョンの「素」が出てきたということかもしれません。

ワトスンがホームズを「大げさ」「芝居がかってる」と感じるのは、事件のタネ明かしに演出を加える時ではないかと思います。「演出家」ホームズの活躍は、「海軍条約文書事件」での朝食の演出、「白銀号事件」での競馬場での演出、「六つのナポレオン」の鞭を使った演出など、枚挙に暇がありません。ホームズ自身もこうコメントしています。

「ワトスン君は私のことを、実生活における劇作家だというんですよ。私の内部からは芸術的な素質が湧きおこって、好演出をしつこく求めるのですな。われわれの職業というやつ、ときに結果を美化するような膳立てでもしないことには、まったく単調で目もあてられないことになりますよ。
いきなり肩に手をかけたり、のっそりとお前が犯人だといったり――これじゃあんまり芸がなさすぎるじゃありませんか。そこへゆくと電光的な推理や巧妙なわな、起こりうべき事がらへの鋭い洞察、大胆な仮定の見事な的中――こうしたものこそわが生涯の誇りであり、生きがいというものじゃないでしょうか?
いま現にあなたがたは、情勢への魅力で心をおどらせ、猟人の期待で興奮しているけど、もし私が時刻表のように明確なやりかたをしたら、心のときめきなんかあるでしょうか?ほんのしばらくの辛抱です、いまに何もかもわかりますよ」(『恐怖の谷』)



シャーロックは兄のマイクロフトを」「芝居がかったことが好き」と揶揄しますが、彼自身も、バスカヴィルの研究所でジョンを騙したり、わざわざ変装してジョンの前に現れたりと、相当芝居がかっています。"The Sign of Three"では聴衆の前でスピーチをしたり、バイオリンを弾いたり。「ダンスが大好き」という新たな一面も披露しました。
もともと、エンターテイナーの才能があるのですね。ジョンはジョンで大人気ブロガーですから、二人とも、それぞれに人を惹きつけるスター性を備えているということになります。
そう考えると、「シャーロックとジョン」(もちろん『ホームズとワトスン』も)は、一人でもスターになれる表現力を持ち合わせた二人が常に鼻を突き合わせているわけで、お互いの突出した部分が鼻につくのもしょうがないよなあ、という気がしてきます。ロックバンドや漫才コンビなんかも、よく「方向性の違い」とか言って解散したり、ソロ活動したりしますもんね。
原作のホームズとワトスンも、ずっとべったり一緒にいたわけではなく、トータルで見るとくっついたり離れたりしてたわけですが、なんだかんだと60過ぎまで友情が続いたのは、芸能人も学ぶべきところが多いのかもしれません(←何だかよくわからない〆になってしまいました)。

(原作からの引用はすべて延原謙訳)

【追記 2014.10.26】RMさんのブログ「Jeremyのことが知りたくて」で連動記事を書いていただきました!
なんと、あのジェレミー・ブレットも……? こちら からどうぞ!
プロフィール

Author:ナツミ
シャーロック・ホームズが好きです。どちらかというとワトスン君がより好きです。

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このブログで考察した「元ネタ」を、ドラマの時系列に沿って探すための索引サイトです。 順次更新致します。 「21世紀探偵・ブリキの文書箱」
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